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米子東のエース・長島康夫は外地で終戦を迎え、2年遅れで高校に進学。2年時には19歳を迎えていた。そして遠藤俊部長からこう告げられる。

「君はもう高校野球の公式戦には出られない。既定の年齢を超えてしまったんだ」

姉は逃避行の間に栄養失調により、17歳の若さで他界。終戦から1年以上が経ち、長島はようやく日本に帰国したが、待ち受けていたのは厳しい現実だった。戦地に赴いた父の行方は分からず、実家も焼失。父の生まれ故郷である安来町に引っ越したが、母、妹の3人での生活は貧困を極めた。初めて野球と出会ったのは小学生の頃である。隣に住む中学生に誘われたのがきっかけだった。長島は安来中学に進学。亀滝監督の指導で頭角を現した。

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(画像)小学生の頃に初めて野球と出会った長島。安来中学に進学後、亀滝監督の指導で頭角を現した。

高校進学は考えていなかったが、高橋義八先生の説得もあり、高校に進学することを決めた。長島は松江商、米子東の2校を受験し、ともに合格。第1志望は松江商だったが、米子の方が運賃が安いということもあり、米子東に進学した。長島は1塁手に抜擢され、1年夏の県予選で優勝を達成。東中国大会でも危なげなく勝ち進み、甲子園への切符を掴んだ。初戦の滝川戦ではエース・義原武敏(のち巨人→近鉄)の好投もあり、2-1で勝利。2回戦で早稲田実に1-3で敗退したが、長島は憧れの聖地で思う存分プレーした。激しい戦火を生き抜いた長島にとって、甲子園は大きな充実感と満足感を与えてくれるものだった。長島はこう思った。

「またここで野球がしたい。あのマウンドに自分が立ちたい」

2年夏は県大会準決勝で倉吉東に3-6で敗退。甲子園出場の夢を断たれたが、それと同時に自分がエースを担うチームの出発でもあった。遠藤部長からの衝撃の通告はそんな時だった。

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(画像)就職から一転、高校に進学した長島。1年時からベンチ入りを果たし、憧れの聖地で思う存分プレーした。

現在でも日本高野連の「大会参加者規定」では、当該年で満18歳以下の生徒に出場資格を認めている。この規則に則ると、長島は36日間あまり年齢をオーバーしていることになるため、公式戦出場停止ということになったのだ。野球を辞めようかと悩んだが、「試合に出られなくても野球はあと1年できる。自分のできることをしよう」と、裏方としてチームを支えることを決めた。打撃投手を務め、試合を見ては気付いた点をメモに取り、監督や仲間に渡した。「白球を追い続けるだけ」という思いを抱きながら、冬場の鍛錬も乗り越え、最後の春もあっという間に過ぎていった。

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(画像)年齢オーバーで公式戦出場停止となった長島。それでも打撃投手を務め、裏方としてチームを支え続けた。

長島を失ったチームは思い通りの成績を挙げることができなかった。昨年秋は県大会決勝で米子南に0-2で敗退。翌春も山陰大会初戦で大田に0-7で敗退した。6月のある日、長島はいつもと同じように野球部の練習に参加していると集合がかかった。木下勇監督はこう話した。

「長島君が試合に出られることになった。さっき県高野連から連絡があった」

突然の朗報に戸惑いを隠せなかったが、選手全員から拍手が起こり、肩を叩かれたり、握手をし合ったりしているうちに嬉しさが込み上げてきた。実は米子東は長島が進学した時から、県高野連に甲子園出場資格が与えられるよう検討を求めており、遠藤部長も嘆願書を作成。ようやく特例中の特例で出場が認められたのだった。

本格的な投球練習を開始したのは県大会の1ヶ月前からだったが、長島は不思議な感覚に包まれた。1年間のブランクを全く感じさせないほどに直球が走り、カーブ、シュートにも切れがあった。県大会では2回戦の倉吉東戦で2安打完封。決勝で米子南を15-2で下すと、東中国大会では初戦の倉敷工戦で17奪三振。決勝で境打線から8三振を奪い、3-0で甲子園出場を決めた。

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(画像)特例中の特例で出場が認められた長島。県大会、東中国大会を制し、甲子園への切符を掴んだ。

初戦の相手は別府鶴見丘だった。1回表、長島は制球を乱したが、3者連続三振で切り抜けると、その裏に米子東は相手の失策、吉田の左前打で1点を先制。長島は尻上がりに調子を上げ、別府鶴見丘打線を2安打無失点に抑え込んだ。1-0で勝利を収め、試合時間はわずか1時間35分。長島は決して前評判は高くなかったが、この快投で一気に大会随一の好投手に躍り出た。長島はこう話した。

「僕としては普通の出来だったと思います。皆が盛り立ててくれて思い通りのピッチングができました」

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(画像)強打の別府鶴見丘打線を2安打無失点に抑え込んだ長島。一度も3塁を踏ませなかった。

3回戦の相手は中京商(現・中京大中京)だった。中京商は同年春に優勝を達成しており、優勝候補の大本命。エース・安井勝(のち立教大→丸善石油)はカーブ、フォークが武器であり、巧みにコーナーを突くピッチングは頭脳的にも優れている。打線も強力であり、富田虎人(のち中日)をはじめ、富田宏、星山晋徳(のち大阪→中日→国鉄)、鈴木孝雄(のち法政大→南海)のクリーンアップの破壊力は抜群だった。この日は台風9号の影響もあり、甲子園球場には強風が吹き荒れていた。午前開始予定だった試合は午後にずれ込み、強風も一向に収まる気配がなかった。外野への打球は風に押し流され、内野では砂塵が舞い上がるなど、試合続行は困難となり、中止が決定。これが翌日の再試合に大きく影響を及ぼすこととなった。

「春の優勝校の実力はどれほどのものかと思って投げましたが、『何だ、彼らも同じ高校生じゃないか』という実感がありました」

これで翌日はまずまずの勝負ができるのではという自信が芽生えた。翌日に行われた再試合も長島と安井の息詰まる投手戦が続いた。8回裏、米子東は福間が死球で出塁。1死後、江原が右越え2塁打を放つと、斉木がスクイズを決め、2点を先制した。さらに、続く長島も自らのバットで3塁打を放ち、ダメ押しともいえる1点を追加。長島は投げても直球、ドロップを内外角に散らし、中京商打線を5安打無失点に抑え込んだ。3-0で中京商の春夏連覇の夢を打ち砕き、長島は投打にわたって活躍。チーム初の準決勝進出を決めた。

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(画像)試合後、安井と握手を交わす長島(右)。中京商の春夏連覇の夢を打ち砕き、チーム初の準決勝進出を決めた。

準決勝の相手は岐阜商(現・県岐阜商)だった。エース・清沢忠彦(のち慶應義塾大→住友金属)は超高校級左腕と言われ、同年春は準優勝。優勝候補の一角にも挙げられていた。1-1の同点で迎えた9回裏、長島は無死1、3塁のピンチを招いたが、山田を三振に打ち取ると、続く所はスクイズ失敗。恩田も3ゴロに打ち取り、試合は延長戦に突入した。10回裏、岐阜商は村瀬の四球、田中和男(のち法政大→東映)の犠打などで2死3塁。ここで打席には清沢が入る。長島は一度も安打を打たれていないということもあり、直球を中心に攻めていった。ストライクを2つ取り、続けてカーブを投げて外すつもりが、甘いところに入ってしまった。清沢の打球は1、2塁間を抜けていき、1-2xで敗退。決勝進出の夢を断たれ、長島の最後の夏は終わりを告げた。

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(画像)惜しくも決勝進出はならなかったが、チーム初のベスト4に大きく貢献した長島。粘りのピッチングは清沢を上回るものがあった。

「すみませんでした」

試合後、長島は木下監督と遠藤部長に頭を下げた。その瞬間、それまで堪えていた涙が溢れてきた。それは悔しいというよりも、甲子園に出場させてもらったことへの感謝の気持ち、やれるところまでやったという喜びだった。連投の疲れで球威は少し落ちていたが、それでも岐阜商打線を9安打2失点に抑え込み、大量失点は許さなかった。公式戦出場停止から一転、特例での出場が認められ、甲子園ではチーム初のベスト4に大きく貢献。長島の堂々とした戦いぶりに、スタンドからは惜しみない拍手が送られた。

大会後、地元の米子市はさらに盛り上がり、盛大なパレードが開かれた。兵庫国体への出場も認められ、決勝で中京商に0-1で敗退したが、準優勝を達成。プロ球団や大学野球からも誘いがあったが、家庭の事情などもあり、卒業後は富士製鉄(現・日本製鉄)に入社した。5年間プレーを続け、都市対抗野球に5回出場。その後は姫路南の監督も務めた。軟式野球部や「還暦野球」で70歳まで野球を続け、現在は神奈川県横浜市で家族とともに暮らしている。2007年から米子市の観光大使を務め、2018年夏の鳥取大会では始球式も行った。

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(画像)甲子園一の人気者となった長島。軟式野球部や「還暦野球」で70歳まで野球を続けた。

☆書籍紹介☆
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河出書房新社から出版されている本『19歳の甲子園』。全10章で構成されており、今回の記事では主に7章~9章を参考にしている。姉との別れ(5章)、行方不明の父、女手一つで育てられ、野球を断念しかけた少年が甲子園に出場するまでの過程は涙なしでは読めないだろう。朝鮮抑留もあり、2年遅れで高校に進学。年齢オーバーで公式戦出場停止から一転、特例での出場が認められ、甲子園ではベスト4入りを果たした。長島氏の幼少期を詳しく紹介できないのは残念だが、気になる方は是非この本を読んで確かめていただきたい。管理人のような若い女性ファンにもおすすめである。

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・清沢忠彦(野球選手)

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・『19歳の甲子園 昭和31年夏 高校野球熱闘譜』長島康夫, 河出書房新社, 2011年, pp.148-214
・『スポーツ・スピリット21① 高校野球 熱闘の世紀』ベースボール・マガジン社, 2001年, pp.122-127
・『夏の甲子園トリビア ~47都道府県別対抗~』ダイアプレス, 2013年, p.96
・『不滅の高校野球・下 栄光と感激のあと 昭和38年ー昭和54年』松尾俊治, ベースボール・マガジン社, 1984年, pp.36-39, pp.42-43
・『甲子園ー忘れえぬ球児たち』鈴木俊彦, 心交社, 2008年, pp.45-46
・『完全保存版 夏の甲子園100回 47都道府県別 故郷のヒーロー』朝日新聞社, 2018年, p.167
・『シリーズにっぽんの高校野球 [地域限定エディション]15 中国編 岡山・広島・鳥取・島根・山口』ベースボール・マガジン社, 2010年, p.52
・『ホームラン ふるさと別に選んだ戦後甲子園の100人 平古場昭二から荒木大輔まで』日本スポーツ出版社, 1981年, p.80
・『週刊朝日 7月15日号増刊 地方大会号 第61回全国高校野球選手権』朝日新聞社, 1979年, p.83
・『朝日新聞デジタル』19歳で甲子園のマウンドに立った球児、長島康夫さん, 2009年,
https://vk.sportsbull.jp/koshien/news/OSK200906260041.html(最終閲覧日:2020年7月19日)
・『朝日新聞デジタル』優勝候補との投手戦、しのいだ挑戦者 米子東, 2018年,
https://www.asahi.com/articles/ASL4R5V3DL4RPUUB00P.html(最終閲覧日:2020年7月18日)

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・ 1枚目:『ホームラン ふるさと別に選んだ戦後甲子園の100人 平古場昭二から荒木大輔まで』日本スポーツ出版社, 1981年, p.80
・ 2枚目:『シリーズにっぽんの高校野球 [地域限定エディション]15 中国編 岡山・広島・鳥取・島根・山口』ベースボール・マガジン社, 2010年, p.52
・ 3枚目:『完全保存版 夏の甲子園100回 47都道府県別 故郷のヒーロー』朝日新聞社, 2018年, p.167
・ 4枚目:『激動の昭和スポーツ史④ [高校野球下] 幾多の超高校野球選手の出現、そして金属バット時代へ』ベースボール・マガジン社, 1989年, p.43
・ 5枚目:『1945~1985 激動のスポーツ40年史② 高校野球/隆盛への軌跡』吉田正雄, ベースボール・マガジン社, 1985年, p.89
・ 6枚目:『19歳の甲子園 昭和31年夏 高校野球熱闘譜』長島康夫, 河出書房新社, 2011年, p.177
・ 7枚目:『不滅の高校野球・下 栄光と感激のあと 昭和38年ー昭和54年』松尾俊治, ベースボール・マガジン社, 1984年, p.39
・ 8枚目:『スポーツ・スピリット21① 高校野球 熱闘の世紀』ベースボール・マガジン社, 2001年, p.123
・ 9枚目:『ホームラン ふるさと別に選んだ戦後甲子園の100人 平古場昭二から荒木大輔まで』日本スポーツ出版社, 1981年, p.80
・ 10枚目:『19歳の甲子園 昭和31年夏 高校野球熱闘譜』長島康夫, 河出書房新社, 2011年, 表紙


最後まで目を通して頂きありがとうございました。

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